最終更新日:
今回は機械学習工学研究会(以下MLSE)の発起人である石川冬樹先生と今井健男さんを取材しました。
機械学習工学研究会は2018年に発足した組織です。機械学習モデルを組み込んだシステム(以下機械学習システム)の開発や運用にまるわる生産性や品質の向上を追求する研究者とエンジニアが、互いの研究などの知識を共有し合う会です。
2018年4月より日本ソフトウェア科学会の公式の研究会として正式に発足し、機械学習システムの開発やテスト、運用の方法論の確立のために日々活動にあたっています。
国立情報学研究所 アーキテクチャ科学研究系 准教授。機械学習工学研究会 主査。
ソフトウェア工学および自律・スマートシステムに関する研究・教育に従事。特に、形式手法、自動テスト生成、最適化・機械学習といった技術の活用や、サイバーフィジカルシステムなど先端システムにおける品質保証に興味を持つ。
今井健男さん(画像左)
LeapMind株式会社エンジニア。機械学習工学研究会 運営委員。
前職は大手電機メーカーにて、ソフトウェア工学やプログラミング言語、LSI設計手法の研究をしていた。特に形式手法やテスト手法など、ソフトウェアをいかに高信頼にするかの手法の研究をテーマにしていた。
現在はLeapMindで、ディープラーニングモデルを変換してFPGAボードで高速・高効率に動作させるコンパイラの開発を担当。
目次
MLSEの発足のきっかけ 今井さんのFacebookが鍵
2017年にソフトウェアエンジニアリングシンポジウム2017(SES2017)というイベントが開催されました。そのプログラム内で「機械学習とソフトウェア工学」というパネル討論が行われました。
登壇者は南山大学の青山先生、Preferred Networksの丸山さん、DeNAの濱田さん、そして今回インタビューさせていただいた石川先生の4人。
機械学習ソフトウェアの現状、議題と今後の方向について、ソフトウェア工学との接点を探りながら、ソフトウェア工学の新たな課題と研究・開発の機会を議論する内容でした。
そしてこのセッションを見た今井さんのFacebookの投稿をきっかけに賛同者が続々と集まりMLSEの設立のきっかけになりました。
以下今井さんのFacebook投稿から引用
今年のSESの個人的目玉は、何と言ってもパネルディスカッション「機械学習とソフトウェア工学」だったと思う(僕はこれ目当てに参加したと言ってもいいほど)。
特に、PFN Hiroshi Maruyamaさんが語った「50年前の『ソフトウェア危機』からソフトウェア工学が生まれたように、今のAIを取り巻く現状から『機械学習工学』が生まれてくるはず」という言葉には頷かざるを得なかった。実際の所、NII 石川 冬樹先生ほか皆さんが語っていたように、機械学習相手に従来型のソフトウェア工学の手法は全くと言っていいほど通用しなくなっている。これから、機械学習はソフトウェアに深く根ざしていく。しかし、ML for SE(ソフトウェア工学の問題に機械学習を適用する研究)は今回のSESでも、また今年のICSEでも散見されたが、SE for ML(機械学習の問題にソフトウェア工学を適用する研究)はまだほとんど見られない。これから、そのSE for ML、つまり機械学習ソフトウェアを如何に設計し、テストし、品質を確保するかという手法や知識の体系化がソフトウェア工学者にとって急務になる、と勝手に考えている。
ということで、とても興味深い話を聞かせて頂いたパネラーの皆さんやオーガナイザーの 青山 幹雄先生には感謝しかない。
Facebook投稿がきっかけという少し意外なところから芽が出たMLSE。しかし、これは似たような課題感を、業界の多くの人が抱えていたということなのかもしれません。
QーーFacebookで賛同が得られたということでしたが、機械学習に関する手法や知識の体系化が必要だという潜在的な意識がさまざまな方の中で共有されていたということでしょうか?
今井さん:そうだと思います。機械学習そのものでは学問として成立していますが、機械学習を使ったITシステムの作り方に関して、別の工学として考えなきゃいけないということです。
石川先生:究極的には、効率よく安定した質のよいシステムを作り出すということです。MLSEのSはシステムズのSで、ソフトウェアだけを対象としているわけではありません。
工学の問題の中でも「顧客と開発者が議論や合意をどう行うか」「製品・サービスの品質保証をどう行うか」という点など今までと同じやり方では通用しなくなったという認識があります。
ソフトウェアクライシスが機械学習でも起きている
ソフトウェア工学とは
そもそもソフトウェア工学とは何なのでしょうか。
ソフトウェアはとても複雑な人工物です。ソフトウェアの不具合で人命が失われる事もあれば、社会に混乱を引き起こすことがあります。さまざまな産業がソフトウェアに依存するようになった今、ソフトウェアは社会を根底から支える重要なインフラとなっています。
ソフトウェア工学は、この問題を解決するために、安全で正常に動作するソフトウェアを、できるだけ簡単に開発・維持するための学問です。高品質で信頼ができ、短期間で低コストで開発するという経営的側面など、幅広いカバー範囲を有しています。概念ができてから2018年で50周年を迎えます。
石川先生:ソフトウェア工学というとプログラミングについてだけの議論だと思われがちです。しかし、実は社会論や組織論などソフトウェアを取り巻くあらゆる側面がソフトウェア工学の範疇に入ります。それこそ開発組織のチームの作り方やモチベーションの維持の仕方などまで入るんです。
1968年に起きたソフトウェアクライシスが機械学習にも起きている
1968年にNATO(北大西洋条約機構)の科学委員会により「NATOソフトウェアエンジニアリング・カンファレンス」が開催されました。そこで、当時問題となっていた「ソフトウェアクライシス」について議論されました。
今井さん:50年前にソフトウェアクライシスと呼ばれていた時期がありました。コンピュータのシステムを開発する人材不足などが叫ばれていたんです。
今井さんがおっしゃるようにソフトウェアクライシスは、まだソフトウェア開発の手法が未成熟で、ソフトウェア開発者の育成体制がまだ構築されていない時代に、よく使われていた表現です。
1960年代になりコンピュータがさまざまな産業で情報処理に使われるようになりました。ソフトウェア開発の需要が高まるにつれて開発が期日に間に合わず、遅れて納品したソフトウェアも品質が低いというトラブルが多く発生しました。開発規模が大きくてリアルタイムに処理を行う必要がある軍事や防衛に置いて深刻な問題と捉えられ、NATOが解決する場を模索するために「NATOソフトウェアエンジニアリング・カンファレンス」が開催されるに至ったといいます。
Qーーソフトウェアクライシスと同じことが機械学習においても起こり得るということでしょうか?
今井さん:今、同じようなことが既に起こっていると思います。この当時もどのようにソフトウェア開発を行えばいいかがわからないし、人材不足が叫ばれたときに人を増やす以前に、作り方の体制をしっかり整えましょうという文脈でソフトウェア工学が誕生しました。
同じ流れで、今でもAI(機械学習)の人材が不足していると言っている時期に、確かに人を増やすという手段もありますが、それ以前に機械学習システムの作り方を考える学問が必要なんじゃないかと、PFNの丸山さんがおっしゃっていたんです。
Qーー機械学習が、ソフトウェアが誕生するときほどのインパクトがあったということでしょうか?
今井さん:大きなインパクトであることは間違いないですね。今までのソフトウェア工学の常識が通用しないという側面もあると思います。
「機械学習では今までのソフトウェア工学のやり方が通用しない」アンケート調査から判明
MLSEは2018年の6月11日〜24日 7月5日〜22日の2回にわけて機械学習に関するアンケートを行いました。
その結果から、今までのソフトウェア工学のやり方が通用しなくなったと側面が見て取れます。
要求仕様や受け入れに関する意思決定への課題が浮き彫りに
MLSEが行ったアンケートの中で、機械学習に関する課題意識についても調査されています。この結果を通して浮き彫りになったのは、「要求仕様やシステムの受け入れに関する意思決定」や「テスト、品質の評価や保証」について根本的に異なる新たな考え方を用いる必要があるという意識が強いということです。
▼機械学習に関する課題意識についてのアンケート結果
石川先生:青の部分が今までのやり方がほとんど通用しなくなるので考え方を変えなければいけないという部分です。画像認識のプロジェクトであっても、「画像認識をする」とだけ約束することにはあまり意味がありません。しかし「精度を95%にする」と約束できるかというと難しいです。
機械学習においては顧客と一緒に試行錯誤していかなくてはならず、事前に一通り決めてその通りに動いていくという従来のプロセスがほとんど難しくなってしまうんです。
他にも機械学習を用いたシステムの製造責任を誰が取るのかや、人が入れ替わる中でどのように業務を引き継ぐかなどの問題もあり、今までと同じやり方で通用しなくなったんだと思います。
今井さん:顧客と話し合って何かを作ると決まったとき、今までであれば決めた内容を詳細にブレイクダウンしていけばよかったんです。基本的な開発の概要仕様書のようなものを起こして、そこから詳細な要件をきめていき、プログラムを組んでいくというプロセスを取ればシステムが完成するスタイルでした。
機械学習では、作るものを一意に定めるような仕様が作れないんです。「とりあえず画像認識します」くらいであればできますが、例えば顔認識で言えば70%の精度で日本人の顔を認識するというプロジェクトのときに、それをブレイクダウンすればできるわけではないということです。
そもそも、機械学習ではデータが肝心です。日本人の顔をたくさん集めて、「これは日本人」「これは日本人じゃない」という個々の入出力データ(教師データ)から、日本人の顔が与えられれば「日本人」と判断するだろう、というプログラムがボトムアップに完成します。今までのようにトップダウンに詳細化して作ることは難しいんですよね。
MLSEの活動はどこに向かうのか
さまざまな側面で従来のソフトウェア工学と違う機械学習。人材不足などが叫ばれる中で1968年に騒がれたソフトウェアクライシスを彷彿とさせる現状。現場でも要件定義などの課題が浮き彫りになっている。
そんな現状の中で、MLSEが設立されました。
MLSEの活動内容
これからどんな方向へ向かっていくのでしょうか。
MLSEの公式ページから引用します。
- 機械学習プロジェクトを運用するマネジメント手法や組織論
- 機械学習システムのための要求分析、目的設計、工数見積もり手法
- 効率的な教師データの収集・整備、前処理の方法
- 機械学習システム開発を効率的に行うためのフレームワークやプログラミング言語、開発環境
- 機械学習システムの設計に用いるアーキテクチャ
- 機械学習システムのテスト・検証、デバッグ、モニタリング手法
- 機械学習システムを支えるプラットフォームやインフラストラクチャ、ハードウェア
以上のようなテーマに関して、研究者やエンジニアなどそれぞれの立場から機械学習システムに対する問題提起や、研究報告、エンジニアリングプラクティスについて情報を交換し、議論する場を提供するそうです。
2018年5月に開催されたキックオフシンポジウム
2018年5月には神保町にある一橋大学 一橋講堂にてMLSEのキックオフシンポジウムが開催されました。
AINOWで公開したアクセンチュアUSAの工藤さんによる講演記事は多くの方にご覧頂いている記事です。
機械学習において重要な場作り
ソフトウェア工学においても、手法から組織論までさまざまな議論がありました。機械学習に置いても、ただモデルの作り方だけでなく組織の作り方やUI、組織づくりなど多くの議論が必要です。
石川先生:MLSEはコミュニティなので、とにかく場作りがモットーです。マネジメントなどで変な縛りをしないように心がけています。みなさんからのリクエストを受け取ってさまざまなイベントを行います。
次回は先端論文を紹介し合うイベントを2018年11月に開催する予定です。
今井さん:そもそも最初は機械学習においてどの分野が足りていないんだっけ!?というところから始まっています。そろそろ大枠で共通の課題認識がMLSEの参加者の中でできあがってきていると思います。あとは、場作りをして個別に打破していく感じですね。
Slackに気軽に参加できる
MLSEでは機械学習工学に関する情報交換やイベントの告知などをSlackにて行っています。機械学習の議論に参加したい方は、ぜひご参加ください。
機械学習はAIじゃなくなる
最後に機械学習工学にかける意気込みをお二人に伺いました。
今井さん:機械学習って今でこそホットトピックですが、これからは機械学習を使うのは当たり前になる時代がくると思います。今はAIブームで盛り上がっていますが、そのうちAIには冬の時代がまたやってきます。
機械学習がITシステムの中の当たり前の技術になって、将来的にはソフトウェア工学の一部として帰着していく。そこまでやっていけばMLSEは成功かなと思います。
石川先生:ソフトウェアの世界では、振り返るととりあえずなんか作れそうだからと素人が開発をしてバグが起きて大惨事になるなどのことがありました。産学両方でたくさんの失敗があったと思います。
その失敗が起きつつあるのが機械学習かもしれません。実際に機械学習がビジネスになると、なんらかの責任を取らなければならなくなります。とりあえずやってみただけでは済まされなくなります。テストの仕方やプロジェクトマネジメントの仕方などさまざまな面で踏み込んでいき、みんながハッピーに過ごせるような機械学習のシステムを作ってくれるといいなと思っています。
あとがき
8人体制で運営するMLSE。内容が揃って学問分野として成立しなければ大学の先生も研究や授業を行うことが難しいとも今井さんはおっしゃっていました。
まずは教える内容を作っていかなければならない。ある意味教科書を作るような作業をしていかなければならないんだなと感じました。
機械学習はあらゆる産業を革新する可能性があります。しかし、その分、考慮すべき要素はたくさんあります。AINOWもそれぞれの面に関して発信を続けていくのと同様に、みなさんもぜひ、自身に近いドメインで機械学習について、議論を深めていってほしいです。
■AI専門メディア AINOW編集長 ■カメラマン ■Twitterでも発信しています。@ozaken_AI ■AINOWのTwitterもぜひ! @ainow_AI ┃
AIが人間と共存していく社会を作りたい。活用の視点でAIの情報を発信します。