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AI(人工知能)が台頭しており、「人間を超えるかどうか」という議論も盛んに行われています。新しい技術、例えば、蒸気機関・電気・インターネットなどが生まれて、産業や社会の在り方が変わるのは珍しくありません。
しかし、AIはそれらを超えて「人間の役割を奪う」とも言われます。なぜなら、人間の特権だと思われてきた「コミュニケーションを取ること」「考えること」、「反省して学ぶこと」が可能になってきたからです。
本当に人工知能は人間を超えるのでしょうか。来たる人工知能時代、私たちの見つけておくべき能力は?
この記事ではAI vs 人間 の実態と、私たち人間の“強み”を考えていきます。
AIは人間を超えるか
AIは人間を超えるのでしょうか。そもそもAIとは何でしょうか。
考えることができる機械?スマホの中に入っている数式?
AIの定義を一枚岩に決めてしまうのは難しく、実際に学者の間でもさまざまな定義あります。
「AIは人間を超えるか」という議論をするうえでは、どのようなAIを指していて、どのような意味で超えるかどうかのすり合わせが大切になります。
今のAIでも、一部の画像認識の精度などは人間を超えています。一方で、人間が持っている多様な能力を、全て超えるようなAI(いわゆる汎用型AI)を意味するのであれば、あらゆるタスクでまだまだ人間を超える精度で実現する具体的な見通しは経っていません。
AI vs 人間のはじまり
そもそも「AIが人間を超える」という議論は、なぜ・いつから始まったのでしょうか。
はっきりとタイミングを断言はできません。しかし、「シンギュラリティ」の議論は大きな論争を巻き起こしたと言えるでしょう。
シンギュラリティとは、哲学者のレイ・カーツワイル博士が2045年に起こるとして提唱した概念です。
日本語で技術的特異点と言われ、機械の知能が人間を超える転換点を指します。これを超えると機械は自らをプログラミングすることで、永久に進化を続ける。従って、AIが人間最後の発明だとも言われます。
また、フレイ氏・オズボーン氏の論文がアメリカの労働人口の47%が機械に代替可能であると発表したことも話題になりました。今の仕事が約半分失われるのであれば、人間社会に生きる我々にとっては大きな衝撃です。
一方で、AIの発展で、新たに仕事が発生する可能性や、仕事が取られても、その余暇が産業として発達する可能性があります。今日ではフレイ&オズボーン氏の推計を否定・修正する論文もさまざま出ています。
AIが人間を超えた事例
人工知能は、人間と競わせる形で発達してきたとも言えます。
まずご紹介するのは米IBMが開発したワトソンと人間のクイズ対決です。
クイズで問われるのは、問題文を全て聞かなくとも、推論し答える能力です。我々が普段使う言語、“自然言語”をコンピュータが読み取れる形にする、“自然言語処理”を駆使して大量のデータベースから知識を獲得したワトソンは、見事2011年に人間に勝利しました。
次に典型的な事例はボードゲームです。特に囲碁におけるAIと人間の戦いは注目を集めました。オセロや将棋で人間を負かしたAIですが、より戦略が多様で複雑な囲碁に勝つには難しく時間がかかると言われていたからです。
しかしGoogle DeepMindが開発したアルファ碁は2010年にプロ棋士相手にコンピュータ史上初の勝利を収め、2017年5月には中国の棋士である柯潔を相手に3番勝負で全て勝利をあげ、人間相手に対局をしないことを決めました。
また、「東ロボくん」も、人間の受験生が解く問題にAIが挑戦し、東京大学への合格を目指したプロジェクトです。
プロジェクトの中心人物、新井紀子氏によってその実態が語られた「AIv教科書が読めない子どもたち」によると、5教科8科目の偏差値は2016年で57.1まで上昇したと言います。言い換えれば、大学で言えばMARCH、関関同立と呼ばれるレベルで勝負。それ以下の偏差値帯の人間には勝利したのです。
このように大量のデータから「学習」するAIが、人間を超えたことは衝撃を与えました。AIが人間を超えて、役割を奪う。そのスピードが想定より早く来ていることを示唆させるからです。
しかし、これらのAIは全て決まった作業をするためのAI(特化型AI)で、人間そのものを超えたわけではありません。
またAIが人間を超えるというより、AIを作る人間がそれに頼らない人間を超えたと、構図を捉えなおすこともできます。
このように、AIが人間を超えるかという問題を一概に語るのは非常に難しいのが現状です。
AIが得意なことと人間が得意なことを見極めて共存するような社会の構築が必要になります。
AIが得意なこと
AIが得意とするのはどのようなものでしょうか。画像認識・音声認識・自然言語処理など、AIにもさまざまなタイプがあります。
さらに今日では、画像生成や音声生成などクリエイティブな仕事にも対応できるようになっています。
その元は全てデータにあります。すなわち、大量のデータが準備できる分野はAIが得意とします。そのデータを使って環境に最適化させることできるのもAIの特徴です。
例えば自動運転では、外の環境をカメラやセンサーで読み取って、自動車が取るべき行動をAIが判断しています。
人間が得意なこと
人間が得意なことは、データが少なく、目標を数字で定めることができないものです。例えば、医学のなかでも画像診断は、徐々にAIの力が活用されています。これには大量の画像データが蓄積されてきた背景があります。一方で、メンタルケアやカウンセリングなど感情に寄り添う必要性がある仕事は、依然、人間の力が必要です。
善悪を含む判断を下すのもAIには難しいです。例えば、司法の分野でも契約書の作成や、過去の事例から訴訟の優劣を判断することはAIでのサービスも出てきています。
一方で、法廷での最終的な判断や、法の仕組みそのものをつくる政治は、AIを参考にすることはあっても、今後とも人間が行うと思われます。
理由は2つです。
1つ目は、法廷や政治で間違いがあった時、「AIが判断したから」では済ませられない、責任所在の問題がある点。
2つ目は、政治が法律を作る時「どういう社会を目指したいか、目指すべきか」という価値観による判断を含み、非常に数字でゴールを設定しづらい点です。
また、AIを作成するには膨大なデータとコストがかかります。従って、データが少ない仕事・データが取りにくい業務・マーケットそのものが小さく、AIを生成するのにコストが見合わない仕事は、人間に残されます。
例えば、宮大工は専門性や複雑性が高く、データ化が困難のうえにプレイヤーも限られていて、AIに任せる方がコスパが悪いと考えれます。
一方で人間の感情を数字で読み取ることができるようになったり、自然言語処理の技術が飛躍的に上昇したりなどすれば、これらの仕事ができるようになるかもしれません。
専門家の声
「AIが人間を超える」という議論に対しては、専門家からも様々な声が上がっています。
例えば、西垣通氏は著書「AI言論」のなかで「待った」をかけます。出版に際して行われた千葉雅也氏との対談のなかでも、以下のように語っています。
西垣:AIをうまく使って人間の領域を開く、例えばアートの新しい領域を拡張するといった試みはいいんです。でも、判断をAIに丸投げして、部分的なデータに基づくにすぎない計算結果を「普遍的に正しい」と主張するのは、要するに、「世界は神のロゴスでできている」というモデルの悪用だと思うんですよ。
新聞にはしばしば「今度はこんなことをAIがやりました」なんて書いてありますが、AIの深層学習はパターン認識の部分に使われているだけで、その他のところは昔ながらのプログラムで動いている。それを「AIだからすごい」と言うのはおかしい。もし事故が起きたら、誰が責任をとるのか。
もちろん、AI技術自体は有益でしょう。例えば過疎地に住むお年寄りは、自動運転の助けを借りて出かけられるようになるかもしれないし、いいことはたくさんあると思います。ただ一方で、AIに対する奇妙な御利益信仰が、私は納得できないんですね。
また、AINOWが行ったインタビューで、三宅陽一郎氏もシンギュラリティには懐疑的でした。
人間の身体や知能がAIによって拡張すること。AIは、あえてネットやコンピュータと言わないのと同じように、社会にすっかり溶け込んでしまうとした上で下記のように言及しました。
今われわれは自分の目で世界を認識しているから、たかだか100メートルぐらいしかわからないけれど、将来的には地球全体をいつでも見れるようになるかもしれません。シンギュラリティの意味は、人の拡張によって薄れていきます。
そうすると、人工知能の見え方も変わってくると思います。生身の人間と人工知能を比較したら、やはり脅威でしかありません。でも人間はヒューマンオーグメンテーションによって進化すると考えれば、テクノロジーが宿るのは人工知能側だけでなく、身体側(人間側)にもくるということですね。
このように、AIが人間を超えるか、どのように超えるかという議論は、多様な見方があり、必ずしも人間にとって悪いシナリオが訪れるわけではありません。
おわりに
「AIが人間を超えるか」という議論は、なにをAIと指しているか、どんな意味で人間を超えるとするかをすり合わせて議論することが必要です。そのうえで一概には、超えるとも超えないとも言いづらい側面があります。
しかし、機械学習などのAI技術は発展を続けていくでしょう。資本主義社会が続く限り、AIの進化・発展を止めてしまうのは現実味がありません。
AI vs 人間の対立構造を超えて、共存できるような社会設計や法整備を進めていくことが必要だと考えます。